日蓮宗 西龍華 妙性山 妙顕寺

沿革

妙顕寺沿革

 当山は延文元年(1356年) 4月8 日、日像菩薩を開山上人、一乗妙性上人(刀匠・三原一乗別称法華一乗)を開基上人として創建されました。
 そのいきさつは、大覚大僧正(妙実上人)がその師・日像菩薩の命により中国地方へ伝道に来られ鞆の地に「法華堂」(現在の法宣寺、福山市鞆町後地 1194-1 )を建立された折、その教えにつよく感化をうけた刀鍛冶・三原家(原とも呼ぶ)の「妙性」「本性」の兄弟は直ちに師檀の契りを結びました(以降三原兄弟の打つ刀剣には「法華一乗」の銘が付されるようになりました)。

 大覚大僧正はさらに中国地方の弘通を続けられたので、妙性、本性兄弟は直接、京都・妙顕寺の日像菩薩について修行するために、幾度も京都と水呑を往復しました。ついに一寺建立を誓願し、自分の持ち山に当寺を建て開山日像菩薩・二祖大覚大僧正・三祖一乗妙性上人として開創されました。寺号も大本山・京都妙顕寺と同名の「妙顕寺」とすることが許され、更に「西龍華」の称号をも賜りました。また山号は開基上人のゆかりにより「妙性山」と号しています。また弟の本性上人は「本性山妙法寺」(福山市南町 9)を創建されています。
 かくして、当山は日像菩薩の遺命に従い、備後一円はもとより広く中国・四国地方の教線の中心として各地より登詣を受けながら、一方では地元水呑において「水呑千軒みな法華」と呼ばれるほどの地域に根ざした大きな教化を果たしています。

 なお伝聞によれば、天正 15年(1587 年)関白豊臣秀吉が九州征伐にて瀬戸内海を航行中、当山を遥見して案内人に寺名を尋ねたところ、大本山と同名であることを知りました。そこで「不遜である」との理由で改名を強いられ、一時弟寺の「妙法寺」の名を借りたことがありますが、やがて復名が許されたと伝えられています。
 当山は末寺十六ケ寺を有した中本寺であり、また優れた僧を幾多輩出しています。中でも 18世「本迹院日意上人」(新寺十ケ寺建立)、 29世「龍雄院日叡上人」(新寺五ケ寺建立)、 36世「心妙院日修上人」(身延山法主・日蓮宗管長)等は宗門史上にも有名です。

 現在の本堂は享保9年( 1724年)、鐘楼堂が寛永12年( 1635年)の建立で江戸時代の建築物が多く七堂伽藍の態を保っています。

 本尊勧請様式は一塔両尊四士、合掌印で、祖像は寛政9年( 1797年)造立の説法像です。寺宝には宗宝の宗祖御消息断片をはじめ、准宗宝(伝)開山日像筆要文断片・2つ御判の曼荼羅、日充筆立正安国論一巻、仏像には文殊・普賢など多数が蔵されており、刀匠法華一乗兄弟の打った小太刀「古狐丸」の名刀も有名です。
 本堂前には、妙顕寺開創 650年記念として平成18年に建立された開山日像菩薩、妙性、本性両上人の3体像が祀られています。

沿革写真

〒720-0832 福山市水呑町1617 TEL0849-956-0004  Copyright © 2012 MYOUKENJI All Rights Reserved.